【Joint Press Release: University of Toyama, Hokkaido University, Dokkyo Medical University and OIST】
*This press release is available in Japanese only
ポイント
- 記憶は、「記憶を担う神経細胞集団(エングラム細胞集団)(注1)」に保存されるが、エングラム細胞は出来事を経験した時に形成されるのか、それとも事前に脳内に準備されているのか、もしそうならどのように準備されているのかは不明のままだった。
- 自由に行動しているマウスの脳内で記憶エングラム細胞の活動を観測する独自の技術を使って、少し先の未来の記憶を担うエングラム予備細胞が、その経験をする前の睡眠中に既に脳内に準備されている様子を観察することに成功した。
- 未来の記憶を担うエングラム予備細胞集団は、別(前)の出来事を記憶した後の睡眠中にその記憶のエングラム細胞集団と同時に活動して出現することから、エングラム予備細胞の形成は前の記憶の影響を受けていることが示唆された。
- 以上より、睡眠中には①過去の記憶の保存と、②未来の記憶への準備という2つのプロセスが並行して進行していることが明らかになった。
概要
富山大学 学術研究部医学系 生化学講座の井ノ口 馨 卓越教授とカレド ガンドウル(Khaled Ghandour)特命助教らのグループは、過去の記憶の保存と未来の記憶への準備という2つのプロセスが、睡眠中に並行して進行していることを初めて明らかにしました。
本研究グループは、自由行動下のマウスの脳内で「記憶を担う神経細胞集団(エングラム細胞集団)」とそれ以外の細胞の活動を光で観測する技術(注2)を使い、脳の海馬中にあるエングラム細胞集団が、新しい出来事や経験を記憶する前の睡眠中の段階ですでに準備されて活動している様子の観察に成功しました。さらに、未来の記憶のために準備されているエングラム予備細胞集団は、前の記憶直後の睡眠中にエングラム細胞以外の細胞から出現し、前の記憶を担っているエングラム細胞集団と同時に活動することが分かりました。このことから、エングラム予備細胞の出現には前の記憶が影響していることが推測されます。続いて、エングラム予備細胞集団が出現するメカニズムを調べるために、神経回路モデルによるシミュレーションを行いました。この結果、エングラム予備細胞集団が出現するためには、前の記憶のエングラム細胞の再活動の影響を受けてエングラム細胞以外の細胞で起こる睡眠中のシナプスの変化が重要であることが提唱されました。以上の結果は、睡眠は単なる休息ではなく、睡眠中の脳は「舞台裏で」積極的に働いており、過去の記憶を定着しつつ、未来の記憶に備えるという2つの役割を果たしていることを示しています。
本研究は、情報通信研究機構 脳情報通信融合研究センターの芳賀 達也 研究員、獨協医科大学の大川 宜昭 准教授、香港城市大学のChi Chung Alan Fung(チー チャン アラン ファン)助理教授、北海道大学の佐藤 正晃 講師(現京都工芸繊維大学教授)、沖縄科学技術大学院大学の深井 朋樹 教授らと共同で行われたものです。
本成果は、科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 CREST(課題番号JPMJCR23N2)によって得られました。
研究の背景
睡眠と記憶の関連を調べたこれまでの研究から、睡眠が過去の記憶を定着させるために必要であることが知られていました。さらに、記憶は「記憶を担う神経細胞集団(エングラム細胞集団)」が経験した後の睡眠中に再活動することで定着することが分かっていました。しかし、エングラム細胞は出来事を経験した時に形成されるのか、それとも事前に脳内に準備されているのか、もしそうならどのように準備されているのかは不明のままでした。さらに、過去の記憶を定着させる時のように、睡眠が未来の記憶を担う細胞を選ぶことにも関わっているのかどうかは分かっていませんでした。
研究の内容・成果
1.エングラム細胞は学習前に予備集団として活動している
日々の経験の記憶を蓄えるためには、脳の海馬が必要なことが分かっています。本研究グループは、海馬のCA1領域という場所のエングラム細胞集団(図1)とそれ以外の細胞集団が、新しい出来事の経験中やその前後の睡眠中にどのような活動を行っているか、光で観察する独自の技術(図2)を使って、観測しました(図3)。1日目の観測は新しい空間Aにマウスを置いて自由に行動し探索する経験(経験A)とその前後の睡眠中に、2日目の観測は、睡眠→空間Aの再経験(=記憶の想起時)→新しい空間Bを探索する経験の順番で行いました。得られたデータから、各観測セッションで現れる全ての集団活動をNMF解析(注3)で同定し、経験Aを記憶したエングラム細胞の集団活動について、経験Aと他のセッションとで比べたところ、エングラム細胞集団は経験前の睡眠中に既に予備集団として活動しており、その約半分が経験後の睡眠中や次の日の記憶の想起時に再出現(=リプレイ)することが分かりました。
2. 次の記憶を担うエングラム予備細胞集団は前の経験後の睡眠中に出現する
次に、エングラム予備集団がいつ生まれるのか調べるために、NMF解析で同定した"エングラム細胞以外"の細胞の集団活動について、各観測セッションで比べました(図4)。その結果、経験A直後の睡眠中に現れた集団活動のうち、新しい空間Bの経験中に再出現するグループが存在することが分かりました。このグループは、経験Bの間、エングラム細胞に特有のたくさんの繰り返し活動を示していた(多細胞活動相関行列解析(注4)によって明らかになった)とともに、構成する細胞の全細胞中の割合がエングラム細胞の割合とほぼ同じであるなど、エングラム細胞の特徴を持っていました。このことから、次の経験Bの記憶を担うエングラム予備集団が、前の経験後の睡眠中に現れたのだと考えられました。これは睡眠中に特有な現象であり、経験後の覚醒下ではエングラム予備集団活動は観察されませんでした。
3. エングラム予備集団は前の記憶のリプレイと同時に出現する
それでは、エングラム予備集団はどのように出現するのでしょうか?最近の研究から、睡眠には過去の複数の記憶に対応するエングラム細胞を同時に活動させることで有用な新しい情報を創り出す機能があることが分かってきています。これを参考にして、経験Bの記憶を担うエングラム予備集団と、経験Aの記憶を担うエングラム細胞集団の活動との間に何らかの関連があるのか調べました(図5)。すると、エングラム予備集団は、経験A直後の睡眠中にエングラム細胞集団活動の一部がリプレイしたものと同時に活動していることが分かりました。この結果は、エングラム細胞による前の記憶の定着と、エングラム予備細胞の出現という次の記憶への準備が同時に行われていることを示しています。
4. エングラム予備集団の出現に対する睡眠中に特有のシナプス調節の関与
上記の実験結果から、海馬において、睡眠時に特有のメカニズムがエングラム予備集団の出現に貢献している可能性が示唆されました。この背後にあるメカニズムを明らかにするため、本研究グループは、海馬のCA3-CA1シナプス(注5)における情報伝達および睡眠時の学習ルールを模倣した神経回路モデルを作成し、シミュレーションを行いました(図6)。学習ルールの1つは、シャープウェーブ-リップル(SWR)波(注6)という睡眠中に特有の脳波に伴い、エングラム細胞へのシナプス伝達効率を保ち過去の記憶を定着させると同時に、エングラム細胞以外の細胞へ無関係で不要な情報を伝達するシナプスを弱める学習です。そしてもう1つは、シナプススケーリング(注7)と呼ばれる各神経細胞への情報の入力量を一定に保つルールです。本研究グループはこのモデルを用いて経験前、新しい経験A、経験後の睡眠、新しい経験Bにおける海馬の神経活動と学習のシミュレーションを行い、実験と同様にエングラム細胞やエングラム予備集団が出現することを確認しました。さらに、SWR波によるシナプス弱化あるいはシナプススケーリングをシミュレーションから除いた場合に、エングラム予備集団の出現が阻害されることを示しました。この結果から、SWR波とシナプススケーリングという睡眠中に特有のシナプス調節を行う仕組みによって、エングラム細胞以外の細胞で経験Aと関連するシナプス結合が弱められ、その代わりに将来の入力に対応するシナプス結合が強化されて新たな活動パターンが生まれるというプロセスによって、エングラム予備集団の形成を説明できることが分かりました。
今後の展開
ヒトが眠る理由は、一般的に休息し体力を回復させるためだと考えられています。しかし今回の研究結果から、睡眠中に脳はむしろ活発に働いていて、過去の記憶を定着させるのと同時に、近い未来の記憶を扱う準備をしていることが分かりました。この睡眠中の働きによって、脳は過去と未来の情報をつなぐ整理をしていると考えられます。睡眠中の脳が、日々の記憶を順番に秩序立てて獲得する仕組みが明らかにされたことで、今後、睡眠中の脳活動や睡眠法への介入によって、脳が本来持つ潜在的な能力をより引き出して記憶力を向上させる方法が見い出されることも期待されます。
参考図
用語解説
注1)エングラム細胞集団
エングラムとは記憶の痕跡の意。ある出来事を経験すると、その経験に応じて脳の特定の神経細胞が活性化し、エングラム細胞に変化することで記憶が符号化される。そして同じエングラム細胞の集団が再び活動すると、その記憶が呼び起こされることが分かっている。本研究グループは、海馬CA1のエングラム細胞を人工的に活性化することで記憶を操作できることを2015年に発表している(Ohkawaら, Cell Reports, 11: 261-269)。
注2)エングラム細胞集団とそれ以外の細胞の活動を光で観測する技術
神経細胞は活動するとカルシウムイオンが細胞内に流入することから、カルシウムイオン濃度の変化に応じて蛍光を発する人工的な蛍光タンパク質G-CaMP7に着目し、それを海馬の神経細胞で作り出すことができる遺伝子改変マウス(Thy1::G-CaMP7マウス)を準備した。一方、記憶エングラム細胞を別の蛍光タンパク質KikGRで観察できる遺伝子改変マウス(c-fos::tTA遺伝子改変マウス)を準備しておき、両者を交配させることで、神経細胞の活動(G-CaMP7の蛍光)と記憶エングラム細胞の存在(KikGRの蛍光)を区別して観察することができるマウス(二重遺伝子改変マウス)を作出した。ここでいう技術は、このマウスの海馬に内視鏡としてロッド型レンズを挿入して、神経細胞の活動(G-CaMP7の蛍光)と記憶エングラム細胞の存在(KikGRの蛍光)を超小型蛍光顕微鏡で観察できる技術のこと。この技術は、2019年に発表した論文(Ghandourら, Nature Communications, 10: 2637)で本研究グループが確立したもの。
注3)NMF解析
正式名は非負値行列因子分解(NMF: Nonnegative Matrix Factorization) 解析。ある1つの行列データを、2つの小さな行列に分解する解析であり、米国ベル研究所のDaniel D. Lee博士とH. Sebastian Seung博士が、顔の画像を目、鼻などのパーツとその強度の2つの要因に分けることに応用できることを1999年のNature誌に紹介し注目されたアルゴリズムである。
注4)多細胞活動相関行列解析
注5)CA3-CA1シナプス
の回路では、シナプスを介して神経細胞同士の連絡が行われる。海馬CA1の神経細胞は、同じ海馬のCA3領域の神経細胞と多くのシナプスを形成し、CA3からの情報伝達を受け取っている。本研究のシミュレーションでは、このCA3-CA1シナプスの回路モデルが用いられた。
注6)シャープウェーブ-リップル(SWR)波
ノンレム睡眠中に海馬でよく観察される脳波。シャープウェーブ(鋭波)と呼ばれる時間幅が100ミリ秒ほどの大きな振幅の脳波に、約200Hzのリップル波が重なることで現れる。SWR波に乗って、直前の経験中に現れた神経細胞活動がリプレイすることから、記憶の定着に貢献することが知られている。しかし近年、SWR波によって不要なシナプスの連絡が弱まることも報告されている。本研究のモデルには、この不要なシナプスを弱める効果が組み込まれている。
注7)シナプススケーリング
神経細胞にある複数のシナプスを制御することで、各細胞に入力する情報の総量を調節する仕組み。例えば神経細胞では、経験の情報を符号化する際には、あるシナプスは情報伝達の効率を上昇させるが、その一方で不要な入力を減らすため他のシナプスを減少させる調節が働いている(逆にある入力が減少すると、他の入力を増加させる方向に調節が働く)。